長い散歩

先日ILFAROというブランドのシャツを買ったら、別に応募したわけではないのですが、その店が協賛している映画の試写会が当ったというので、観に行くことにしました。
俳優の奥田瑛二が監督する「長い散歩」という映画です。

2006モントリオール世界映画祭
<グランプリ><国際批評家連盟賞><エキュメニック賞>三冠受賞

ってことで快挙らしいです。俳優が監督の映画ってことで、昔のバンダイキャラゲーのように期待薄だったのですが、それを聞いて多少は期待が持てそうです。
ポスターには「贖罪意識を持つ老人が一人の天使と出会い、二人は旅に出る。しかし世間はそれを誘拐と呼んだ」というようなコピーがあり、なかなか面白そうです。

一人の初老の男と5歳の少女の旅。男は亡き妻への贖罪の念を背負い、少女は自分の置かれた残酷な境遇を生き延びる唯一の術のように、いつも天使の羽を背中にまとっている…。『少女〜an adolescent』(01)、『るにん』(06)と次々に監督作品を発表し、個性派俳優であると同時に映画監督としてのスタンスを固めつつある奥田瑛二。『長い散歩』は、長編3作目にして彼の映画作家としての確かな実力を示す、涙と感動の名作である。
(公式サイトより)

テーマは虐待、家族愛。母親に虐待される少女を見かねて、彼女を連れて、自分の人生を振り返る旅に出る老人の話です。
主演は緒形拳。今この役ができる老俳優は彼の他にはいません。


上映前に奥田瑛二監督のインタビューがありましたが、さすがに賞を取っただけに自身満々。映画祭での上映時の観客の受けで「泣きどころのツボは一緒なんだなと自信を持った」とか、「感動した観客のおばさんが家に帰って3人の子供を代わる代わる5時間抱きしめ続けた」とか、「握手しながら涙を滝のように流した老紳士がいた」とかいうエピソードを自慢げに語ってました。
そうですかそうですか。


で、肝心の映画の中身ですが……う〜、あまり期待を煽らない方が良かったかもしれません。役者陣の演技は素晴らしいので、退屈して眠くなるということはありませんでしたが、ボウケンジャーでも泣ける俺様が少なくとも泣けませんでした。老紳士はどこ見て滝のように泣いたんだろうね?
帰りの電車で我が細君と批評し合うと、次から次へと批判が出てくる。うちの夫婦は似たような感性の持ち主ではなく、むしろ真逆ゆえに歯車が合うようなところがあるのですが、ここがこうなってた方がいいのにというポイントがピッタリ一致してました。
奥さん曰く「素人がいじりたくなる映画だ」というのは言い得て妙です。たぶん惜しいところまでいってるのに、いいところで外すんです。それで醒めちゃう。
旅に出る前までの部分は少女にしろ老人にしろ、非常に丁寧に描かれているんですが。


一番残念なのは少女・幸のセリフ。そこはセリフいらないだろう、言うとすればこの少女ならもっと違うことを言うだろうというところで、大人なら言うかなというセリフを言わされてしまう。これは脚本が良くないでしょう。脚本の桃山さくらというのは奥田氏の奥さんと2人の娘さんの合作ペンネームらしいのですが
…。
幸役の杉浦花菜ちゃんの演技は秀逸なだけに惜しい。本当に演技は秀逸なんですけどねえ。虐待されている少女の演技なんて、こんな子供には普通できないですよ。


虐待している母親(高岡早紀)もなあ…。自分が愛されなかったがゆえに愛し方の分からない母親なのですが、「自分が愛されなかったから、同じことを子供にしてるだけ」と本人の口からそれを言わせちゃダメだろう。無自覚にそれを当たり前と思っているか、自覚があるなら子供との接し方がわからないという悩みを持つべきであって、この開き直った虐待母の言えるセリフではない。


途中で旅を共にするバックパッカー・ワタル(松田翔太)も何のために出てきたのか分かりません。優しく朗らかな青年ですが、帰国子女で周囲に溶け込めず、ヒキコモリになったという。なぜか拳銃を持っており、突然自殺してしまう。その理由はさっぱりわからないし、何ら深堀りもされません。
イジメやなんだかんで若者が不条理に死んでいく。その不条理さを訴えたいのかも知れませんが、そんな不条理さは我々だって日々お茶の間でニュースを見る都度に感じているのであって、それを不条理なまま映像化されたって、何の感銘も涌きようがありません。ヒキコモリ、ニート、銃や薬物、自殺、そんなわけの分からない若者像をワタルに具現化したはいいが、監督自身が理解できないものを理解できないまま入れてしまった感じです。煮た方がいいのか焼いた方がいいのか揚げた方がいいのかわからない食材を、ともかく丸めて皿に乗せたって、料理にはなりません。


深堀りといえば、当の主人公の老人・安田松太郎(緒形拳)もです。彼は所謂、仕事一筋で家庭を顧みない夫です。元校長先生で、昔風な厳格な父であり、妻をアルコール依存症にさせたあげく亡くしてしまい、娘からは人殺しと呼ばれるまでに恨みを買っています。そういう設定はあるものの、フラッシュバックされる過去の記憶だけでは、妻は何故アルコールに走り、どういう経緯で死んだのかがわからないし、それ故に娘は何故父をこんなに恨んでいるのか分かりません。
家庭を顧みない団塊世代の夫という一般像から、あとは察してくれという感じです。でもこれは安田松太郎の物語であって、彼の置かれた状況を一般化してしまうと、核が失われた散漫なものになってしまいます。緒形拳の絶大な存在感のおかげで散漫な印象は免れてますが、娘との関係性は非常に消化不良で終わってしまいます。特にラストに向けては、娘にもっと能動的に動いて欲しかった。そのためにも過去のエピソードは重要だったのに。


思うに、全般的に、社会に蔓延する病理・不条理の表層は掴んでいるんですが、そこに切り込むことも深堀りすることもできておらず、掴んだものをそのまま出した感じです。世の中には、人一倍の感性をもっていて、掴んだものそのままでも十分他の人にとっては新鮮という天才もいますし、そういう人の場合はそれだけで作品としての価値も生まれます。が、奥田監督の場合、残念ながら、彼の掴んだものは、我々が日々のニュースで感じる疑問や不条理と同じものでしかありません。


日本の社会を詳しく知らない人、つまり外人にこの映画を見せれば、お国と同じ問題点を見出して、あるいは新しい問題提起を見出して、共感や感動を感じてもらえるのかも知れません。でも日本人としては、その問題提起は分かってる、そのもう一歩先が見たい、と思ってしまいます。
最初に挙げた幸のセリフにしても、母国語ではなく外国語で話しているものを字幕で見る分には違和感は感じなかったかも知れません。母国語で観る者に対しては、もう一歩上の感性、不自然さを感じさせない演出やセリフが必要になってきます。
海外でいい評価を受けたというこの作品が、イマイチ心に響いてこないのは、結局そういうところで足りない部分があるのだろうと思います。


上映前のインタビューでは良い事言ってたんですけどね。「大人が面倒くさがらずに周囲の子供や若者に関わっていけ」と。「長い散歩」はそれを行った男の物語でした。でも、肝心の監督や脚本が、そこまで関わっていけてなかったなという印象です。